life

とらわれずに暮らしていく

今も昔も

住んでいるところから車で5分くらいの所にメガソーラーができている。元はボタ山だったこの場所は、少なからず因縁がある場所でもあり、ひまわりを作り始めた原点でもある。夢や理想より目先のカネ、まだ若く、他人を信用していたオヒトヨシだった頃、夢中になって必死で掴みかけたものから裏切られ、踏みつぶされた場所。あの後どういう経緯があったかは知らないけど、山は切り開かれ、むき出しの地面の上に並べられたソーラーパネルは、偽善の象徴に見えてくる。

旧産炭地だったこの場所は、エネルギーに翻弄されてきた場所でもある。石炭から石油へとエネルギーの転換が起こり、産炭地は急激に衰退していく。昭和43年に生まれた私はその最後の姿を何となく記憶している。かつてオヤジは炭鉱のオーナーだったという。でも記憶に残るのは貨車に石炭をスコップ1本で積んでいる姿。その貨車の列が並んでいた駅にSLや貨車の姿は無くなっていった。廃墟になった洗炭場、壊れかけた炭住、むき出しで突き出したままのトロッコのレール、風呂を沸かす石炭を拾っていたボタ山の煙は消え、セイタカアワダチソウの黄色い花が一面に咲いている。ボタ山で遊んでいたトモダチは毎週のように引っ越していく。

カネを生む場所に人や企業は集まり、無くなれば潮が引くように無くなっていく。資本主義経済というものはそういうものだと思うし、利益が出ないと判断すれば企業は撤退していく。いつかテレビで見たイナゴの大群の様に資源を食い尽くし、後には何も残らない。石炭を掘った後、この場所には何が残っただろう?膨れ上がった胃袋を満たす為の田畑は捨てられ、坑木や炭住を当て込んで植えられた木々は、生き物を育まない森になった。それが資本主義経済の原則なのかもしれない。でも、50年経ってやっと自然に還りつつある山を切り開き、耕作放棄地を埋め尽くすソーラーパネルは、あの時と同じことの繰り返しになるような気がする。

4半期で決算をし、年に1回の株主総会で方針を決める経済と、50年100年のサイクルで回っている自然を同じ定規で測ることはできない。お金も必要だと思う。エネルギーも必要だと思う。でも、もっと自然の法則に近い、心地のいいやり方や稼ぎ方があるはず。

ひまわりでエンジンを動かす。そんな子供じみた夢はこの手で現実になった。同時に解ったのは、あまりにも安くカンタンに手に入る化石燃料や電気のカラクリ。そのカラクリは戦争を生み、差別を生み、搾取や欺瞞の上に成り立っている。そのシステムから抜け出さないと世界は不安と恐怖から逃れられないと思う

何か方法はあるはず。答えは必ずどこかにある。新しい夢はそれを見つけること

オモシロくなってきた